二度と帰らぬ穏やかで幸せな日々を記録しておきます。
55歳定年まで小学校教員を勤めました。 地元の人々から「先生! 先生!」と大事にされました。
昭和20年まで地元の小学校教員を勤めました。 遠足の写真では、教え子に慕われ幸せそうな姿が写っています。
三世代が一緒に住んでにぎやかな時代でした。
戦前は「ねえや」もいました。
いつの時代でも、写真の一番の題材は子供です。
遠出はしなかったけれど貴重な家族の時間でした。
残りご飯に味噌汁をかけると愛犬のご馳走になりました。
茅葺き屋根の家でした。 家の横の用水路は水がきれいで、めだかやフナがおり、夏には蛍やオニヤンマが飛んでいました。 昭和30年ごろに上水道が設置されるまでは、用水路の水を、砂、木炭、しゅろでろ過して飲み水に使用していました。
牛小屋のにおいには閉口しました。
子供は、大人の自転車で練習しました。
結婚式の引き出物の果物かごの一本のバナナを家族で分け合って食べた記憶がありす。 田舎ではバナナは貴重品でした。 姉は、結婚前の稽古事として近所の琴の先生(盲目の老女)に琴を習っていました。
子供が小さいうちは、里帰りもたびたびでした。
田植え、稲刈りの農繁期は学校も一斉休業となりました。
30年代中頃までは、農繁期には四国から多くの出稼ぎ労働者がやってきましたが、日本が高度成長期をむかえると、大阪などの好条件の出稼ぎへ流れてゆき農家への出稼ぎは無くなりました。
周りが田んぼで、のびのびと球が打てました。
秋祭りの時は、露店が出てにぎわっていました。